飯田水引協同組合(岩原克典理事長)は「秋分の日」の23日、「飯田元結の祖」とされる桜井文七の供養祭を菩提寺の長昌寺(飯田市箕瀬町)で営んだ。地場産業として息づく水引の礎を築いた立役者の墓前で、コロナ禍での結束を誓った。
同組合によると、1682(天和2)年に尾張(愛知県)の元結職人の家に生まれた文七は、上質な和紙を求めて来飯し、箕瀬町に居を構えて製法の改良に尽力。江戸に出店して販路を拡大し「飯田元結」(文七元結)の名を広めた。
文七が世に知らしめた元結の原料となった和紙は、文七より少し前に美濃国(岐阜県)から来飯した紙すき職人の稲垣幸八が製造方法を確立し、飯田の職人に伝授した。
文七は飯田に戻ってから後進を育て、寺の過去帳によると1753(宝暦3)年に72歳で死去した。
元結はその後、水引の登場に伴い生産量が減少。現在は力士のまげ、歌舞伎や花嫁衣裳のかつらなどに使われている。同組合によると、日本相撲協会へ納入される元結は全て飯田産だという。
供養祭は数年前から、和紙作りに貢献した幸八と、ブランド化と販売に尽力した文七の2人を供養する祭事になっている。
文七の268回忌、幸八の264回忌となる今年の供養祭には、組合員12人が参列。本堂での読経後に墓参し、供養塔と墓碑に手を合わせた。
岩原理事長は「新型コロナウイルスの影響がさまざまなことにおよんでいるが、儀礼用品を扱う私たちとしては縮小してもきちんと行う必要がある。水引は長い歴史の中で紆余曲折を乗り越えてきた。こういう時だからこそ結束し、文七と幸八のように業界の振興を目指したい」と話した。
◎写真説明:桜井文七の供養祭