途絶えてしまった文化を再生することは可能か。仮に可能だとしても、それには相当の努力と時間を要する。飯田市中村で出土する赤土を原料とした赤壁が、かつて南信州地域のあちこちで見られた。誰が言い出したのか「中村壁」。郷土の先人が好んだその壁を再生しようという動きが、地元建築関係者の地道な努力で静かに、ゆっくりと進行している。
きっかけは2006年、地元に住む美術家が創作途上でこの赤土の調査とルーツ探しを行ったことからだ。本紙の報道で地元左官業者や建築士らの関心を呼び、中村壁を復興しようという声が上がった。
素材となる赤土は、ベンガラに近い赤色と雲母含有が特徴。地元の経済が潤った明治から大正のころ、その独特の風韻は豪家の主らに好まれた。茶室や客間の一部に中村壁を使う文化様式は、戦後まもなくまで続いたようだ。
戦後の経済成長とライフスタイルの変化で建築資材も変わり、中村壁は衰退。その存在さえも忘れ去られる運命をたどった。
美術家(ミクストメディア作家)、林正彦さん(61)=同市上郷黒田=はイタリア留学で得た美術体験を根底に、独自の創作姿勢を貫く作家。自らの芸術観は、自らの人生観にも関わる。
帰郷後の創作活動をつかさどったのは郷土の風土である。中村の赤土に出会ったのも、それが創造的刺激に満ちた美意識を内包していたからにほかならない。
林さんが地元の赤土を中心素材に、麻袋やスポンジで絵画を造形したことじたいが中村壁再生の発端だったといえるかもしれない。
素材の赤土を調査したときに行動を共にした人がいる。かつて左官職人として、実際に中村壁を作った経験を持つ勝野平八さん(81)=同市東中央通=だ。勝野さんも過去の記憶を頼りに、もう一度中村壁を再生しようと意気込んだ。
勝野さんの体験に裏付けされた知識と人脈から、林さんとの調査活動は思わぬ展開を見せた。大きな成果は、中村で壁土の販売を生業としていた家にたどり着いたことだ。そこから中村壁の再生も現実味を帯びた。
新聞報道で経緯を追いながら、建築関係者の視点から伝統技術の復活として中村壁の再生を意識していたのが、市内で設計事務所を営む一級建築士の松下重雄さん(73)=同市時又=だった。
林さんの個展で中村の赤土を使ったアート作品に出会い心を揺さぶられた松下さんは、高森町内に計画された「瑠璃の里会館」で一部に中村壁を取り入れることを提案。07年には地元の左官職人の手による再生が実現した。
日本建築家協会環境建築賞などを受賞している松下さんは、古民家再生にも力を入れている。住宅施工や再生建築の場では機会あるごとに、中村壁の魅力を説いてきた。
その後も、市内の喫茶店や住宅の和室などに採用。最近も旧市内にある個人住宅の改修工事で、茶室風に仕立てた応接間に中村壁を取り入れたばかりだ。
「健康に暮らすには自然素材がいい。しかもそれが地域の素材ならなおさら。左官職が離れていくのを食い止め、技能と一緒に建物を残す。そのチャンスをつくるのが私の仕事」。4件目の再生を果たした松下さんは、そう言い切った。
現場で左官工事に携わったのは山田左官工業所=同市羽場赤坂=の山田文男さん(69)だ。「茶室なら中村壁が最高の塗り」と、自らの仕事に誇りを持つ。山田さんは今回、中村で採取した赤土にわらすさを入れ、水と混ぜ合わせた独自の壁土を生成した。塗ると柔らかな光沢を見せる中村壁である。
石膏ボードの上に土を塗っていくのは難作業だ。土なめしから中塗りを2回、上塗りも2回重ねた全5回の工程。乾燥に乾燥を加えた仕上げまでの時間は、ほぼ1カ月に及ぶ。中村壁が完成するまでには相当の時間と労力が必要なのだ。
「ここまでくるのは大変」。山田さん自身、試行錯誤を繰り返してその技法を得た。「使ってくれる人がいないと、こういうものは失われていく。当然、仕事も来なくなる」「後継者が必要だが、この仕事は職人的なこだわりがないとだめ。そこが課題だ」
山田さんは別の左官業者が中村壁を知らなかったために施主の要望に応えられなかった―という話を挟んだ。情報の発信も必要だろう。
だが、すべては人から人への努力だ。山田さんは力を込めた。「誰かに教えようと思っている。つなげていくことが大事なんだ」
(村澤聡)